“青春小説”としての再定義/青春小説の再定義~萩原健太『アメリカン・グラフィティから始まった』を読んで

“青春小説”としての再定義/青春小説の再定義~萩原健太『アメリカン・グラフィティから始まった』を読んで

萩原健太さんの『アメリカン・グラフィティから始まった』(ele-king books)を読了した。

同書は、『アメリカン・グラフィティ』(監督:ジョージ・ルーカス/1973年)の劇中で流れるすべてのポップ・ソングを頭から順に1曲ずつ紹介していく解説書[1]すべての、というのがポイントで、サウンドトラックには収録されていない曲についても触れられている。……という体裁をとっている。

まず、この構成自体が非常に面白い。どのシーンで流れたのかはもちろん、曲の詳細について、歌手について、さらには曲の受け取られ方について、多角的な解説がなされており、1973年に編まれた『アメリカン・ポップス』という2時間弱の“ソングブック”を隅々までおさらいすることができる。

しかも、ただ解説するだけではなく、たとえばデル・シャノンの「悲しき街角」であれば日本における邦題という文化について、バディ・ホリー&ザ・クリケッツ「ザットル・ビー・ザ・デイ」であればギター・コンボ編成について……といった具合に、ひとつのポップ・ソングを切り口に、アメリカン・ポップス/ロックンロールに多面的に迫っているのがポイント。ゆえに、本書には『アメリカン・グラフィティ』という映画を切り口にした1955年以降のアメリカ(及びその周辺)のポピュラー音楽史総ざらいという側面もある。
フランキー・ライモン&ティーンエージャーズ「恋は曲者」を切り口に、ジャクソン5、はては(1997年に発表した「MMMBop」で一世を風靡した)ハンソンまで、キッズ・グループについてざっと触れることで、フランキー・ライモンのポップス史における功績に光を当てるくだりなど、実にスリリングだ。ポップスを体系的に聴いてきた健太さんだからこその“読み方”が提示されている。

また、本書はアメリカン・ポップス史だけでなく、当時のアメリカの若者文化/風俗、さらには社会状況にも迫ろうと試みている。たとえば、クレスツ「シックスティーン・キャンドルズ」ではアメリカにおける「16歳」の持つ意味合いについて、フリートウッズ「ザ・グレート・インポスター」から当時の男女格差問題について……といった具合に。それらの解説は『アメリカン・グラフィティ』本編とも微妙にリンクするものである。
アメリカのポピュラー音楽史がどのような文化的背景で生まれたものなのかを解説するとともに、『アメリカン・グラフィティ』という物語の背景にあるものまでも照射するのである。

“青春小説”としての『アメリカン・グラフィティ』

ここまで書いてきたことで、本書が『アメリカン・グラフィティ』の単なる副読本ではないことは、わかっていただけだと思う。そして、同時に、本書はアメリカのポピュラー音楽史の解説本に留まるものでもない。本書は“青春小説”としての『アメリカン・グラフィティ』の“読み方”を再定義する書籍でもあるのだ。

よく知られているように、映画『アメリカン・グラフィティ』は1962年の夏を舞台とする。ポップス/ロック・ファンならばご存知のとおり、この年はボブ・ディラン、ビーチ・ボーイズ、そしてビートルズがデビューした年にあたる。
では社会的にはどうだったか。やがて社会に暗い影を落とすことになるベトナム戦争にもアメリカはまだ突入しておらず、キューバとの関係に緊張が高まる直前であり、まだまだアメリカ全体が無邪気に陽気にいられた時代……それが1962年である。
『アメリカン・グラフィティ』はカリフォルニア州モデストに住む高校生たちを主人公とした“青春小説”である。青春時代を過ごした町を離れる者ととどまる者。彼らの“青春時代”の最後の一夜ともいうべき時間が、この映画では描かれている。あまりにも象徴的なテーマ。ゆえに、彼らの物語に、ケネディの暗殺、キング牧師の暗殺、そしてベトナム戦争などを経て挫折した“かつての若者たち”は、無邪気な若者でいられた頃のアメリカを見出すのである。『アメリカン・グラフィティ』とは、アメリカそのものの“青春小説”でもあるのだ――という見立ては、もはや定説であろう。
健太さんもそこは前提としており、『アメリカン・グラフィティ』をアメリカがまだ無邪気でいられた頃の物語だとは一応見做している。そこから先に一歩踏み込んで、私たちが――そう、ブライアン・ウィルソンとは違って天才ではない私たちが――無邪気でい続けることの醜悪さを指摘し、今――トランプや安倍のことばがもっともらしいものとして届いてしまう今。小林よしのりがかつて90年代に提示したような価値観がもっともらしいものとして振りかざされる今[2]それについては、拙ブログのここで詳しく書いた――『アメリカン・グラフィティ』を昔(=ある意味での栄光時代)を懐かしむ意味での“青春小説”としてではなく、“少年”から“大人”に、“少女”から“大人”になる覚悟を決める瞬間の物語としての“青春小説”として読み解こうと、提唱しているのである。

今まで健太さんがロックやポップスについて語るとき、無垢への憧れを賛美することが度々あった。たとえば、ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』。そんな健太さんが『アメリカン・グラフィティから始まった』の前書きを次のような文章で始めている。

“いつまでも少年の瞳を持っている”とか、“無垢な少女の心を忘れない”とか。
そういう文言がともすれば誉め言葉として流通しがちな世の中ではあるけれど。どうなんだろう。ぼくにはたいして偉いこととも思えない。

これは転向ではない。その証拠に、その後にちゃんと「自らが理想とする表現活動のために本当に子供のような純粋さを維持しようと懸命に感性を研ぎ澄まし続ける」ことを「素晴らしいことだと思う」と続けている。だが、現状に対する危機感ゆえに、「多くの責任を放棄したまま他者に依存し、知りたくないことには耳を貸さず、子供っぽく気ままに生きてい」く者に対して声のヴォリュームを上げねばならないと考えたからこそ、前述のような強い書き方をしたのではないだろうか。
キラキラしたドリーミーなポップスを愛する者として、私たちに影を落とすものから目を逸らさずにいよう。態度を決めよう。そういうメッセージを私は読み取った。本編ラストを飾るビーチ・ボーイズ『オール・サマー・ロング』についての章。ここに込められた健太さんのメッセージが痛烈に胸に刺さる。

アメリカのポピュラー音楽史の“読み方”を提示し、同時に『アメリカン・グラフィティ』という“青春小説”の読み方を提示したという点で、『アメリカン・グラフィティから始まった』は非常に刺激的な書籍である。

青春小説とは〈途中の物語〉である

さて、大きく話は変わるが。
私はここ10年ほど青春小説というものにあまりノレなかった。いや、正確にいうならば、ここ10年ほどに書かれてきた青春小説にほとんどノレなかったのだ。
『アメリカン・グラフィティ』にも、村上春樹『風の歌を聴け』にも、ジョン・アーヴィング『熊を放つ』にも、もちろんJDサリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』にも心を動かされた私だが、ここ10年で書かれてきた青春小説を謳うエンタメ文学には共感できるものがほとんどなかったのである。かろうじて共感できたのは、AKB48「言い訳Maybe」のPVと西尾維新の『結物語』だけである。

だが、今回『アメリカン・グラフィティから始まった』を読んだことで、その理由がようやくわかった。

健太さんは次のように言う。

そう。青春というのは輝いてばかりじゃいるわけじゃない。どちらかと言えば、いや、大方の場合、ほぼほろ苦いだけのものなのだから。(53頁)

青春小説とは畢竟「ほろ苦さ」との向き合いである。右往左往する様が青春小説だと私は思う。物語を通じて成長する必要はない。大きな挫折を経験する必要もない。覚悟を決めようとするかどうかの方がより重要だ。そして、そこにある種の楽観がまぶされていれば、なおベターだ。

未練も後悔も少なからずあるけれど、それでも時は前に向かって流れ、良いものか悪いものかはともあれ、とにかく新しい物語が常に始まっていく。(250頁)

〈途中の物語〉と言ってもよいかもしれない。

いつからか、青春小説の多くは、〈クラスでイケていないグループに属する人たちの良かった探し〉〈イケていない人たちor痛みを抱えている者たちのビルドゥングス・ロマン〉に限定されるようになっているように、私は思う。限定的にすぎるのだ。

繰り返しになるが、『アメリカン・グラフィティ』は“少年”から“大人”に、“少女”から“大人”になる覚悟を決める瞬間の物語である。夏休みの最後の日を舞台にした〈途中の物語〉だ。だからこそ、ラストに流れる「オール・サマー・ロング」に救われる。

Won’t be long til summer time is through
(Summer time is through)
Not for us now

“Not For Us Now”にある楽観に救われ、その楽観ゆえにまたぞろほろ苦さを感じるのだ。

ほろ苦い〈途中の物語〉だからこそ、普遍性を持った青春小説として『アメリカン・グラフィティ』は今もなお愛され続けるのである。

註釈

註釈
1 すべての、というのがポイントで、サウンドトラックには収録されていない曲についても触れられている。
2 それについては、拙ブログのここで詳しく書いた