渋谷系直撃世代のかつてのギタポ少年から、「音楽だいすきクラブ」さんの「渋谷系はかっこいい」という記事への補足

渋谷系直撃世代のかつてのギタポ少年から、「音楽だいすきクラブ」さんの「渋谷系はかっこいい」という記事への補足

以前「TV Bros.」でも紹介されていたブログ「音楽だいすきクラブ」さんに、次のような記事がある。

渋谷系について触れたもの。筆者の方は私よりも10歳近く若い方だそうで、それなのにここまできちんとまとめられるのだから、その編集力には頭が下がる。
ここで、渋谷系直撃世代の人として、上述の記事について補足をしておきたい。
ただそれは、上述の記事についてネガティヴなツッコミをしようという主旨のものではない。「音楽だいすきクラブ」さんの記事をきっかけに渋谷系を聴いてみようという人たちが知っておくと、もっと楽しめるであろうことを補足しようという試みである。その点、ご承知いただければ幸いである。

from 渋谷系直撃世代のかつてのギタポ少年 to 音楽だいすきクラブ

(1)サロンミュージックについて

メンバーの吉田仁はフリッパーズ・ギターのプロデュースをしていた方で、デビュー自体は1980年。2ndアルバムは高橋幸宏のプロデュースでリリースされている。

(2)スパイラル・ライフについて

スパイラル・ライフは当時「渋谷系」では括られることが少なかった。ただ、太田出版から1996年に出た『渋谷系元ネタディスクガイド』で1章割いて紹介されたことで、それ以降「渋谷系」に括られる向きが強くなった。

(3)EAST END & YURIについて

かせきさいだぁを紹介する箇所で「同時期に活躍したEAST END & YURIもそうだけど、90年代前半から中頃にかけての渋谷系界隈のヒップホップ」という記述があるが、彼らは渋谷系界隈で括られることは少なかった。
むしろ、この流れであれば、TOKYO No.1 SOUL SET、キリンジ、脱線3などのLBネイションズの方が渋谷系界隈としてはしっくりくるのではないかなと思う。

なお、EAST END & YURIの市井由理が1996年にリリースした『JOYHOLIC』も渋谷系的には忘れてはならない1枚。

なにせ、レコーディングに参加したミュージシャンは、小泉今日子、かせきさいだぁ、ヒックスヴィル、ASA-CHANG、菊地成孔、朝本浩文だ。渋谷系も渋谷系であろう。

(4)オリジナル・ラブについて

「ベスト盤を聴くと100%勘違いするので、95年までのオリジナル・アルバムを聴くべし!」とありますが、渋谷系として括られるのは確かに『RAINBOW RACE』ぐらいまでで、この指摘については同意。
なお、渋谷系云々関係なしにポップス職人としての田島さんの魅力を知りたいということであれば、『街男 街女』(2004年)、カヴァー・アルバムの『キングスロード』(2006年)も聴いておいて損はないかなと思います。

(5)TOWA TEI

「ピチカートの2人も『Amai Seikatsu』に参加している。」という記述に補足すると、ピチカートのアルバム『ロマンティーク96』(1995)に収録されている「コンタクト」(ブリッジット・バルドーのカヴァー)のプロデュースをテイトウワが行っていることも見逃せないだろう。

(6)小泉今日子(Koizumix Production)

「東京ディスコナイト」はスクーターズのカヴァー。信藤三雄はスクーターズのギタリストだった。なお、もちろん信藤三雄というのは、デザイナーの信藤三雄。
CTTP(コンテムポラリー・プロダクション)の主宰で、当時渋谷系界隈のアルバム・ジャケットを多くデザインされた方である。
彼の仕事ぶりをまとめたものとして、「シーティーピーピーのデザイン」と「続シーティーピーピーのデザイン 絶頂編」がある。

なお、信藤三雄といえば、今年発売された「MdN」3月号「渋谷系ビジュアル・レトロスペクティヴ」に信藤三雄のインタビューが掲載されており、フリッパーズ・ギターの2nd『カメラ・トーク』のジャケットについて語られている。

(7)渋谷系が終焉した時期について

渋谷系の終焉した年については諸説あるが、私は1998年説をとっている。
ただ、「“渋谷系”を殺したのは誰か? それはCoccoであり、椎名林檎であり、MISIAであり、宇多田ヒカルだった」から1998年なのだとは思っていない。
これについては、当時自身がどういう状況にあったかにより、各自意見が分かれるところだとは思うが、当時DJとして渋谷系を体験していた私(ただ、高校生でもあった)としては以下のように考えている。
前年に「HCFDM(ハッピーチャームフールダンスミュージック)」というムーヴメント内ムーヴメントが起こり、渋谷系と括ること自体の意味が見えなくなってきていた。 ピチカートの『プレイボーイ・プレイガール』が『カップルズ2』というべき内容で、渋谷系があたかも一周して「あがり」のような雰囲気になっていた。
こういったことがまずあって、段々と皆の間で「もう終わりつつあるのかな」みたいな空気が出来上がっていった、というのが私の感覚である。これはもう感覚でしかないので、すんごいあやふやなものではあるのだけれども。
ひょっとしたら、HCFDM以降、ギタポ少年をレコード屋にではなくクラブへと導くような空気が出来上がっていたことも要因としてあるのかもしれない。渋谷系はクラブよりもレコード屋と密接にリンクしたものなので、その変化が渋谷系の意味合いが変わってきたことを象徴するものとなり、渋谷系の終焉を予感させたのでは、というのは案外とあるかも?

追記(3.28.に追記)

「HCFDM以降、ギタポ少年をレコード屋にではなくクラブへと導くような空気が出来上がっていたことも要因としてあるのかもしれない」と書いたが、これについてもう少し考えてみよう。
1997年の渋谷系を象徴するアルバムとして、カジヒデキ『ミニスカート』、ピチカート・ファイヴ『ハッピー・エンド・オブ・ザ・ワールド』、コーネリアス『ファンタズマ』があるわけだが、それでは1998年の渋谷系を象徴するようなアルバムが何かといえば、それは『PUNCH THE MONKEY』。DJのアルバムなのである。

渋谷系のミュージシャンがDJ活動を行うような現象が実際に増えていた。雑誌でもDJ、クラブイベント、ハコが大きく扱われるようになっていく。「噂の真相」でも書かれたほどだから、ひとつの大きな流れになっていたことは間違いない。
DJが表に出てきたことで、リスナーの間で何が変わったか。

  1. それまでは時代を追うことがそこまで重要視されなかったのが、ドラムンベースやビッグ・ビートといった当時の潮流に目配せをきかせる必要が出てきた。[1] … Continue reading
  2. 元ネタ漁りから、かかっていた曲探しに変わっていった。

ただ、2に関しては、サバービアのイベントなどで東京の人たちが昔からやっていたことではある。ただ、それが地方まで拡大したというのが、HCFDM以降なのである。そういったことで、聴き方に変化が生まれてきたと。これが渋谷系の変化をリスナーに意識させたのでは、と私は考える。

以上が、1980年生まれ、当時18歳の私の感覚で捉えたストーリーである。なので、他の方から見たストーリーとは異なっている可能性はあるだろう。
あと、1998年はラスカルズのBOX、ブッダ/カーマストラの再発、ビーチ・ボーイズの紙ジャケ再発もあって、この頃の私はオールディーズ研究にのめり始めた時期なので、ずれている可能性はやはり……

註釈

註釈
1 当時、私は地元のレコ屋が出していたフリーペーパーでコラムを書いていたが、その中でも「昨年はドラムンベース、今年はビッグ・ビート。来年は何だろう。キャプテン・ファンクの次に何が回るのか」みたいなことを書いた記憶がある。