これは信仰ではない。もちろん。~小西康陽『わたくしのビートルズ 小西康陽のコラム1992-2019』を目の前にして

これは信仰ではない。もちろん。~小西康陽『わたくしのビートルズ 小西康陽のコラム1992-2019』を目の前にして

4/23が近づいてきたので、『平成ストライク』の装幀についてブログに書こうかなと思っていたのだが、今日はこの話題。
明日発売になる本について。小西康陽さんの『わたくしのビートルズ 小西康陽のコラム1992-2019』のことだ。

編集人・小西康陽について

以前、『奇想天外 アンソロジー 21世紀版』のあとがきでも書いたことだが、私は植草甚一『ワンダー植草・甚一ランド』や小西康陽『それは恋ではない』のような本を作りたくて、編集者になった。

名前は挙げなかったが、小林信彦『東京のロビンソン・クルーソー』とか、筒井康隆『暗黒世界のオデッセイ――筒井康隆一人十人全集』とかもそう。ああいったヴァラエティ・ブックを私は作りたかったのだ。
だから、『奇想天外』のときは燃えた。ようやく作りたかった本を作れると。燃えるどころか、はしゃいじゃった。
あの本の中のレイアウトに関しては、南雲堂のHさん、welle designの坂野公一さんとレイアウトを考えたわけだが、ページごとに違う組版については、私が前述の本を参考にして、というか元ネタにして組版担当者の一企画さんに作っていただいている。文字間を詰めるよう指示したのも、もちろんそれらの本が元ネタだ。
……といった具合に、編集者としての自分に一番影響を与えてくれたのはそれらの本なのだが、同じぐらいに編集者としての私に影響を与えてくれたのが、ピチカート・ファイヴ『女王陛下のピチカート・ファイヴ』。
ジャケット、帯、ブックレット、トレーから、さらには中身まで。私が知っている中で、この世でもっとも編集術みたいなものが発揮されているのは、あの作品だと思う。コンセプトも一貫しているし、隅々まで全方位でキッチュでスタイリッシュでポップ。いつか『女王陛下』のような本を作ってみたいと、私は30年近く思い続けている。

文筆家・小西康陽について

一方で、自分も文章を書いてみたいと思わせてくれたのも、小西康陽『それは恋ではない』、そして『ぼくは散歩と雑学が好きだった。』だった。私が文章のお手本にしているのも、小西さんである。あとは、萩原健太さんと寺田正典さんのライナー。
とにかく、自分はこんな文章を書いてみたいと、そう思って文章を書き始めた。文章を書いていて行き詰まりを感じると、『それは恋ではない』を読み返した。ノートに写し取った1)これについては、萩原さん、寺田さんの文章についても同じことをした。小西さんの文体をほぼ完コピできるぐらいまで、読み込んで、書き写した。それこそ、「ザ・ベスト・オブ・ザ・グレイテスト・ヒッツ」テッチー期の87年2月号に掲載された文章も2)19字×71行、全1336文字で改行なし、句点は1つだけという文章が掲載された
どこまでが本当でどこまでがフィクションなのかわからない話。その語り口。全部作り話ではないかと思うこともあれば、全部本当なんだろうなと思うこともある。あの感じが私はたまらなく好きだった。
そして、とにかく名文の多さ。小西さんの文章はひとつひとつの文章が長く、その息継ぎの長さが特徴でもあるのだが、時折出てくる名文・名フレーズはどれも短く、そしてとにかくシャイでダンディなのだ。

どうしてぼくが野宮真貴ではないのか。ぼくが彼女なら、何も怖れることなく作品を創り続けるのに。ぼくはきみになりたい。小津安二郎もそう思っただろうか。
これは恋ではない。もちろん。

「スタジオ・ボイス」1992年5月号から

真夜中に電話する相手もいない。テレヴィをつけてもつまらない。そんなときには吉田健一や、内田百閒の本は実に役に立つのだ。
自動販売機で買ったビールか、あるいは冷蔵庫の中のウィスキーの水割りを飲みながら、美味い酒がこのホテルにあれば良いのに、と考えながら、ベッドの中で文庫本を読む。それは陰気な幸福と言っていい。

「ザ・カード」(DCカード)1996年4月

文章は何を書くかもそうだが、どれだけかっこよいフレーズを盛り込めるか、リズムよく畳み掛けられるかが重要だと、私は思う。私もそんな文章を書きたいと思うようになった。
ただ、時折現れる、熱い小西さんの文章もなかなか胸を打たれるものがあって、ブログに以前掲載されていた都知事選に関する文章なんかはまさにそれ。ああいう時折出てくる熱さもかっこよかった。

わたくしのビートルズ

私はこの記事を書いている時点では、まだこの本を読めていない。渋谷SPBS本店で行われたトークイベントで本を買って、家に帰り着いたのは2時間ほど前という状況なのだ。
装幀は相変わらず凝っているし、行間も狭い。段組みも、ついに5段組が登場している始末。漫画も載っているし、映画鑑賞券の半券まで載っている。編集者目線で見れば見るほど、自分にはこんな本はまだ作れないなとびびってしまう。トークイベントでは、ベタの黒さ、墨の載り方について、小西さんはこだわりを語っていたが、そういう細部へのこだわりこそが、とにかく「小西康陽的」だ。
載っている文章も変わっていない。息継ぎの長い文章。名フレーズの畳み掛け。そして、現実とフィクションの境界がよくわかならい世界観。嬉しくなって口笛を吹いてしまう。アステア風にステップまで踏んじゃうかもね。
そう。私はわかっている。この本を何度も読み返すだろうことを。私は小西康陽になりたい。小津安二郎もそう思っただろうか。これは信仰ではない。もちろん。

註釈   [ + ]

1. これについては、萩原さん、寺田さんの文章についても同じことをした
2. 19字×71行、全1336文字で改行なし、句点は1つだけという文章が掲載された

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