「渋谷系を聴いていましたよ」という発言にある〈もやもや〉

「渋谷系を聴いていましたよ」という発言にある〈もやもや〉

今年はサブカル/オタクについて、今までよりも真剣に危機感を持って考えてきた。
そんな中で、同業者でオタク寄り、そして私と同世代の方の発言で、2つほどもやもやしたものがあった。ただ、もやもやしたものの、同時に私がサブカル/オタクを考える上でのヒントにもなったものなので、ここで取り上げたい。

1つ目のもやもや

まず最初にもやっとしたのは次の発言である。

「僕も渋谷系を聴いていましたよ!」

私には最初まるで意味がわからなかった。正確にいえば、その発言には違和感があったのだ。
おそらく彼は「(ヒットチャートにも顔を出していた)小沢健二やピチカート・ファイヴを聴いていましたよ」ぐらいの意味で発言したのだろう。同時に、おそらく彼の中では「渋谷系」というのは、「いわゆる渋谷系として当時雑誌とかで括られたアーティストの音楽」を指すのだろう。
ただ、90年代当時サブカル少年だった私は、「渋谷系」というのを特定のアーティスト群を指す言葉として認識していない。そもそも、その言葉にはいまだに居心地の悪さすら感じてしまう。若杉実さんの『渋谷系』(シンコー・ミュージック・エンターテイメント)にある山崎二郎さんの証言に、渋谷系は「あくまで外野のことば」とあったが、私の実感としてもそれに近い。

ただ、あえて「渋谷系」という言葉を受け入れるならば、「渋谷系」というのは特定のアーティストを指すのではなく、アティチュード(サンプリング感覚とでもいうべきもの。そして、それは送り手と受け手双方に共有されていた)やDJ感覚、おしゃれであることへの意識(強迫観念めいてもいた)を指すものだと思っている。

ゆえに、私は「僕も渋谷系を聴いていましたよ」という言葉にはひっかかったのである。
絶対に君は私とは同じ目線でモノを見ていないでしょ、と。シスコ坂の吉野家で空腹を満たしつつ、レコード屋をはしごして都内を歩いたことないでしょ、と。TSUTAYAですませていたでしょ、と。そう思ったのである。

ただ、これは彼の文化的出自がオタクであることを考えると、納得はいくところでもある。
世代的なことも加味すれば、「セカイ系」という言葉と似た感覚で捉えているんじゃないのかなと(音楽からの発想だったとしても「ビーイング系」)。つまり、同じような要素を持った作品群のことを指すと思っていたのではないのかなと思うのだ。

2つ目のもやもや

次に、私にもやもやを喚起した発言はこれである。

新本格をミステリとしてのみ考えるのではなく、当時の(ミステリ以外のジャンルも含めた)若者向け小説、若者向けエンターテインメント、〈若者向けのカッコいい小説〉として捉えるべきではないか

同発言には、先ほどの「渋谷系」を巡るもやもやと、実は根っこの部分で共通するもやもやがある。
端的に何にもやもやしたかを書いてしまう。
新本格を当時の若者向けの小説、若者向けのエンターテインメントとして、たとえば当時のマンガとか、それこそ渋谷系とかと同じ土壌で考えるというのは、私にとってはごくごく当たり前のことであり(というか、昔からそういう読み方しかしていない)、今さら提唱すべきものなのか――と、もやっとしたのである。新本格がカッコいい小説であったかどうかはさておき。というか、私は新本格をカッコいいものと思って読んだことは今までほとんどないけども(笑)。
ただ、彼がなぜそういう捉え方を新鮮だと感じたのかと考えてみると、次のような気付きが得られる。
彼は、ジャンルは作品群によって規定されると思っていたから、ジャンルを横断するような捉え方が新鮮に思えたのかもしれない。一方で、ジャンルはアティチュードによって規定されると思っている者にとっては、アティチュードなんて曖昧なものだから、ジャンルを横断するなんて考え方はごくごく当たり前のこと。もっといえば、サブカルなんて、その精神的な成り立ち上、メジャーを、時代を意識せざるをえないわけだから、どうあっても〈同時代〉を意識しているわけで。ここの違いなのかもしれない。
ただ、だからサブカルが優れているとは絶対に思わない。そういう考えはない。作品そのものへの、またある作品群そのもののみで完結するような垂直方向の掘り下げが、サブカルは弱いのではないかと思うのだ。そして、これこそがオタクの強みだとも思う。

さいごに

前述の「渋谷系を聴いていましたよ」発言と併せて考えると、こうなるのかもしれない。
あるカテゴライズは作品群同士の差異によってなされると考えるのがオタクであり、アティチュード同士の差異によってなされると考えるのがサブカルなのだ、と。

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