古畑任三郎はエラリー・クイーンの騎士であったか?

古畑任三郎はエラリー・クイーンの騎士であったか?

※以下の文章は、ドラマ「古畑任三郎」1stシーズン第2話「動く死体」、2ndシーズン第1話「しゃべりすぎた男」の真相に触れています。

はじめに

昨日、久しぶりに「古畑任三郎」の2ndシーズン第1話、「しゃべりすぎた男」を観た。

普段あまりドラマを観ない私ではあるが、「古畑」は放映当時に全話リアルタイムで視聴している。
当時海外本格の古典を中心に追いかけていた私が「古畑」に惹かれたのは、「古畑」が本格ミステリとして高く評価できる話数が何話かあったからだ。

倒叙形式とは

ご存知のように、「古畑」は倒叙形式をとっている。なお、倒叙形式をとったのは、脚本の三谷幸喜が「刑事コロンボ」を意識してのものだ。

犯人が冒頭で殺人を犯し、偽装をはかる。その後、刑事として古畑が登場。古畑は事件関係者たちと会話していく中で、犯人を看破する。犯人との対話を重ねていくことで、決定的な証拠を見つけ、それを古畑が犯人に突きつける――というのが「古畑任三郎」のパターンだ。

倒叙形式は犯人が最初に明かされてしまうためにフーダニット的な興味がどうしても薄くなってしまう[1] … Continue reading。従って、倒叙ものは犯人と探偵の攻防に主眼のおかれたサスペンスという形式を自然ととることになる。それゆえ、倒叙は本格ではないという意見すらある。
確かに、倒叙のいくつかには、証拠を地道に集め続けることで犯人の計画が自然に崩壊してしまうものもあり、これらは本格とは言いがたいものがある。だが、倒叙形式であっても解かれるべき謎を内包する本格は成立する。
代表的な謎としては、「犯人はどこでミスをしたのか」が挙げられる。この場合、作品内では〈犯人〉VS〈探偵〉という構図があり、メタ・レベルで〈作者〉VS〈読者〉という構図が誕生することになる。
それでは「古畑」はどうか?
私は「古畑」も本格形式の成立した倒叙であると考えている。「古畑」は「古畑のおこなった推理はどのようなものか?」を巡る本格ミステリなのだ。さらにいえば、「古畑」はエラリー・クイーンの〈国名シリーズ〉の系譜にある作品なのである。

挑戦状における設問は何か?

「古畑」はご存知のように、途中で照明が落ちて、古畑が画面のこちらにいる視聴者に問いかけてくる。この演出はアメリカのTVドラマ「Ellery Queen」(NBC/1975-76年)と共通するものである。
その形式ゆえに、「古畑」はエラリー・クイーンの系譜にあるのだ――という単純な話ではない。挑戦状における作者の読者への設問が、エラリー・クイーンの〈国名シリーズ〉と共通するものがあるから、「古畑」はエラリー・クイーンの系譜にあると私は考えている。

たとえば、「古畑」1stシーズンの第2話「動く死体」では、このように古畑は視聴者に挑戦する。
「中村右近はある決定的なミスを犯しました。彼はあたかもやったのは自分だといわんばかりの証拠をここに残していきました。ヒントはこのすっぽん(筆者註:舞台装置のこと。死体の移動トリックに使われた)の仕組みにあります。なんだかおわかりになりますか?」
一見すると問われているのは、中村右近の犯したミスは何か?である。だが、この挑戦は正確にはこう書き直せる。
「中村右近は自身が犯人であることを特定できる証拠を残してしまった。ヒントはすっぽんの仕組みである。私はこのヒントを手がかりにして犯人を特定する推理を組み立てることができた。私と同じように推理して、中村右近のミスを指摘できますか?」である。
実際、古畑は解決編において、すっぽんの仕組み、つまりすっぽんを上げる際と下げる際のボタン操作は違うことに着目して、「すっぽんが上がったままになっていた」ことを手がかりに「中村右近が犯人である」という推理を披露する。つまり、中村右近の犯したミスとは「すっぽんが上げたままになっていたこと」である。
もちろん、この推理には穴がある。「すっぽんが上がったままになっていたこと」が犯人の残した偽の手がかりである可能性を排除できていないからだ。
だが設問は、「すっぽんの仕組みをヒントに推理して、古畑のように中村右近のミスを指摘することができるか?」であり、推理の正誤そのものは問われていない。究極的なことをいえば、仮に古畑の提示する推理が偽の手がかりをベースにした偽の真相であったとしても、その推理と同じように視聴者が推理できればそれでよいのである。

さて、ご存知のように、エラリー・クイーンの〈国名シリーズ〉には「読者への挑戦状」が挟まれる。そしてその内容は、「ここまでで証拠は全て揃った。エラリーは誰を犯人だと推理したのか?当てよ」ではない。「ここまでで推理に必要な証拠は全て揃った。読者のみなさんもエラリーと同じように真相を推理できるはずだ。それでは、エラリーが披露した推理を当てよ」なのである。エラリーの推理を当てることが読者に挑戦されているのだ。
「探偵の推理を当てること」。作者が読者・視聴者に挑戦状で問うていることを考えるに、「古畑」は〈国名シリーズ〉の系譜にあるといえるだろう。

「古畑」ではどのような推理が求められるのか

ここで、第2シーズン第1話「しゃべりすぎた男」を振り返ってみよう。
「しゃべりすぎた男」は法廷サスペンスものである。ストーリーの流れはこうだ。ある殺人事件において、今泉が犯人として逮捕される。今泉は大学時代の同級生である弁護士の小清水を弁護人として指名。だが、その小清水こそが真犯人なのである! そんなねじれた法廷に、古畑は弁護側の証人という形で出廷。証人席で以下の2点を証明しようとする。

  1. 今泉は犯人ではない
  2. 今泉の弁護をしている小清水こそが犯人である

証人席に立った古畑は小清水が犯人であると指摘し、いくつか推理を披露した後に、小清水に「何か証拠があるのか」と問われることになる。そして、古畑は視聴者に次のように「挑戦」する。

「実は彼はひとつ大きなミスを犯してました。ヒントは裁判記録の中に残されています。みなさんちょっと考えてみてください」

正確にいえば、この挑戦状は次のように書かれるべきであろう。
「小清水はひとつ大きなミスを犯しています。ヒントは裁判記録の中にあります。私は裁判記録の中から手がかりを見つけ出し、その手がかりをもとに犯人を特定する推理を組み立てることができました。私と同じように推理して、小清水のミスを指摘できますか?」

つまり、設問は、

  1. 水差しが手がかりであることに気づけますか? 
  2. 水差しを手がかりに犯人を特定する推理を組み立ててください

である。

実際に古畑が提示した推理、つまり水差しを手がかりにした推理は確かに鮮やかだ。だが、この推理は推測といってもよいものであり、仮にこの推理が正しかったとしても、それにより指摘できるのは、「小清水が事件当夜に被害者のマンションにいたこと」でしかない。だが、それでよいのだ。それはなぜか?

ここで注目したいのは、古畑が挑戦状を挟むタイミングである。
古畑は挑戦状を挟むまでに、以下のことを法廷で指摘してしまっている。

  1. 真犯人による指紋の偽装から、事件当夜に被害者のマンションには今泉以外にもう1人の男がいたと推理できる→その男が犯人だと推測される
  2. 真犯人による指紋の偽装は明らかなのに、なぜか弁護士の小清水はそれを指摘しない
  3. 真犯人は猫アレルギーだと推察される。そして今泉は猫アレルギーではない

また、法廷では指摘していないが、それ以前に以下のことが証明済である。

  1. 小清水が主張した当日のアリバイは偽である
  2. 小清水は猫アレルギーである(こちらは古畑は確信してるに過ぎないが)

視聴者への挑戦状は、解決編が始まる前に挟まれたのではない。
解決編は既に始まっており、真犯人の名前と上記のことが古畑によって指摘された後に、挟まれたのである。つまり、真犯人が小清水であること、そして上記のことは推理の一応の前提として承認されてしまっている。また、挑戦状がここで挟まれたことにより、少なくとも水差しを手がかりに犯人を特定する推理に関しては謎解きゲームにおけるフェアプレイが成立していることがメタ・レベルで保証されているのである。
従って、古畑は「事件当夜に被害者のマンションには今泉以外にもう1人の男がいたと推理できる」と「小清水が主張した当日のアリバイは偽である」から、「事件当夜に被害者のマンションにいたもう1人の男は小清水である」を証明しようとする。つまり、「小清水が事件当夜に被害者のマンションにいた」ことを指摘できればよいということになる。もちろん、事件当夜に被害者のマンションに今泉以外に複数人の男がいた可能性を排除できていないので、小清水がいたことを指摘できたとしてもそれで終わらないのだが、小清水の自白によって「事件現場に小清水+n人(n≧1)いる可能性」が排除されたことで、古畑の推測に近い推理は真相として採用されたわけである。恣意的といえば恣意的だが。
ともあれ、「古畑」においては全てが「正確な推理」である必要はない。挑戦状によって保証される範囲は全ての推理ではないのだ。また、優先されるのが「正確な推理」ではなく「意外な手がかりをもとにした鮮やかな推理」であることもわかっていただけたとは思う。

意外な推理と意外な手がかりと

さて、〈国名シリーズ〉において、クイーンは手がかりを執拗に検討する。ゆえに、飯城勇三が『エラリー・クイーン論』(論創社)で指摘したように、何が手がかりになるのかは、読者には見え見えなことが多い。ヨードチンキの瓶然り、靴然り。

だが、手がかりが明らかなだけに、クイーンが手がかりから読み取ったもの、それをもとに構成した推理がすごく意外なものに、鮮やかに見えるのだ。読者である〈私〉は同じ手がかりを見ていたはずなのに、そんなこと思いつかなかったという驚きに打ちのめされるのである。よって、〈国名シリーズ〉は意外な推理で魅せる本格だといえる。

古畑の場合、手がかりは犯人を直接指し示すものであり、意外な推理という点では弱い。飛躍の幅がそこまで高くないからだ。だが、手がかりが視聴者の前になかなか現れないことがここで効いてくるのである。手がかりが現れた瞬間のインパクトで視聴者を驚かせるのである。「古畑」は意外な手がかりで魅せる本格だといえる。

そういった違いはあるが、意外な犯人で勝負するのではなく、「手がかりから推理を組み立てること」に重きを置いているということでも、「古畑」は〈国名シリーズ〉の系譜にあるといってもよいのではなかろうか。[2] … Continue reading

ディスカッションを重視するミステリ

最後にもう1つだけ、〈国名シリーズ〉、いやエラリー・クイーンと「古畑」の共通点を挙げよう。

エラリー・クイーンものでは、新たな証拠が見つかるたびに、クイーン父子はディスカッションする。検討しあい、仮説を補強していこうとする。
「古畑」では、新たな証拠が見つかるたびに、古畑が犯人のもとに出向いて、自らの推理を開陳しようとする。犯人は古畑の推理を誤導しようと、また古畑の仮説を砕こうと抵抗を試みる。結果的に、これが探偵側にとって有益なディスカッションになってしまい、古畑は仮説を補強していくことになるのだ[3]探偵と犯人のディスカッションだけで進行する、2ndシーズン第10話の「ニューヨークでの出来事」はこの形式の究極といえるだろう。つまり、犯人も探偵側に巻き込まれてディスカッションに参加してしまうというのが「古畑」なのである。
ディスカッションが重視される点も、エラリー・クイーンと「古畑」の共通点である。ディスカッションにおいて仮説を積み重ねることで推理が構成されていく様で、魅せようというのだ。

エラリー・クイーンがこの形式に長けていたのは、フレデリック・ダネイとマンフレッド・リーによる共作だからであろう。ディスカッションで推理が構成されていく妙味を2人は知り尽くしているのである。
三谷幸喜がこの形式に長けているのは、元々、三谷が会話で魅せるウェルメイドな作品を得意とする優れた劇作家・脚本家であるからだ。  古畑任三郎、いや、三谷幸喜もまた、〈クイーンの騎士〉の一人なのだ。

註釈

加えて「古畑」の場合、犯人が殺人を実行するまで、さらには証拠隠滅をはかる様子まで描いているため、ハウダニット的な興味も同様に薄くなってしまう
「手がかりから意外な推理を組み立てること」の系譜としては、最近だと青崎有吾が特に優れている。最近作『風ヶ丘五十円玉祭りの謎』収録の「もう一色選べる丼」における〈見当たらない箸〉を手がかりとした推理は圧巻である
探偵と犯人のディスカッションだけで進行する、2ndシーズン第10話の「ニューヨークでの出来事」はこの形式の究極といえるだろう

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