渋谷系年表への私なりの補足~1998年編

渋谷系年表への私なりの補足~1998年編

前回につづいて、今回は1998年を。

この年表にちょっとずつ私なりに補足していこうかなと思う企画その5。

はじめに

私の渋谷系史観をここで提示しようと思う。
渋谷系というムーヴメントの盛り上がりを基準にし、私は次のように区分けする。

 ~92年 前 期
93~94年 成長期
95~96年 停滞期
97~98年 黄 昏
99~00年 幕引き

これはあくまでムーヴメントとしての盛り上がりを基準にしたものであり、音楽の内容を基準としたものではない。もし、音楽の内容を基準にするのならば、97~98年は成熟期となる。
また、これは当事者たちにとってのムーヴメントの盛り上がりを基準としたものであり、TSUTAYA的な文化圏にいる人にとってのそれを基準としたものではない。後者の人たちにとっては、95~96年は全盛期となるだろう。なお、この場合の当事者というのは、ミュージシャン、裏方さんなどだけでなく、リスナーたちも含む。

私は以前もこの企画で、渋谷系が終焉したのは98年だという説を採用していると述べたが、それはムーヴメントの盛り上がりを基準にしたからである。
「“渋谷系”を殺したのは誰か? それはCoccoであり、椎名林檎であり、MISIAであり、宇多田ヒカルだった」から1998年なのだとは思っていない。
TSUTAYAで満ち足りることにノーをつきつけ、“渋谷”で流れている音に耳をすまそう、探索するために外に出よう――この姿勢が渋谷系である。
TSUTAYA的な文化圏にいる人にとっては、渋谷系に取って代わったのは「Coccoであり、椎名林檎であり、MISIAであり、宇多田ヒカルだった」のかもしれない。
しかし、TUSTAYA的な文化圏から逃れてきた者にとっては、そういった名前はおそらく意識になかったはずだ。次の居場所とはならなかったはずだ。
渋谷系はTSUTAYA的な文化圏に取って代わられて消滅したのではない。
文化として成熟した結果、拡散し、しまいには渋谷系でいる/渋谷系にとどまることが難しくなったものなのだ。

メディアから渋谷系御三家と面白おかしく言われた田島、小沢、小山田は96~97年に揃って脱渋谷系的な方向へと舵を切っていった。
ピチカートは96~98年の“世界同時渋谷系化”とも連帯しながら、自らは『カップルズ2』ともいえる『プレイボーイ・プレイガール』を制作し、ある意味で渋谷系の総決算をするかのうような動きを、おそらく無意識的にではあろうがとっていた。
レコード屋で古いレコードを掘る、元ネタ探しをするというリスナーの姿勢は、クラブでかかっている今の音楽を掘るという姿勢へとシフトしていく。
私はといえば、オールディーズを中心としてアメリカ音楽を探求する道へと邁進していくことになる。

渋谷系を別の何かで上書きするのではなく、渋谷系をヒントにして新たな領域を切り拓いていくこと。そういった態度をとったリスナーが多かったから、渋谷系はムーヴメントとしては終了したのだ。

だから私はポスト渋谷系にまったくノレなかった。
渋谷系にとどまるのではなく、渋谷系を出て、長くくねったポップス道へと進むことこそが渋谷系的な精神だと思っていたからだ。

私は今回の企画は当初から全5回で終わらせる予定であった。
扱う時代も決めていた。95~99年の5年間に絞ろうと決めていた。
そして、最後に98年を扱うことも決めていた。

それはなぜか。
「“渋谷系”を殺したのは誰か? それはCoccoであり、椎名林檎であり、MISIAであり、宇多田ヒカルだった」という誤った歴史観をここで否定したかったからだ。
成長期を過ぎ、後はムーヴメントとして衰退していくだけだった渋谷系がどう終わっていったのか、どう拡散していったのか、どう次の時代へと繋がっていったのか。
それらを証言として残しておきたくて、その試みの第一歩としてこの企画を始めた次第である。

それでは、始めよう。

1998年の渋谷系

補足する上での注意事項

●は年表にないもの。○は年表にあるが補足する必要を感じたものだ。

●トリカテルのコンピレーション盤、ラパレイユ・フォトからリリースされる(2/28)

ベルトラン・ブルガラの主宰するラパレイユ・フォトも世界に同時多発した渋谷系的なレーベルのひとつであった。そんなトリカテルの作品集が『AU SOLEIL DE TRICATEL』『AU ROYAUME DE TRICATEL』と2枚同時でラパレイユ・フォトからリリースされた。

なお、翌月3/21にはドイツのバンガロウ・レーベルの作品集『SUITE:98』がやはりラパレイユ・フォトからリリースされた。

●「Weird movies a go! go!」、創刊(3月)

デザイン集団「groovisions」の、唯一デザインしないメンバーこと、映画評論家のミルクマン斉藤(田中知之と同じレンタルビデオ屋でバイトしていたことも有名)の編集による「Weird movies a go! go!」が創刊された。創刊号の特集はロリータ映画。ソウル・バス(現在ではソール・バスという表記の方が一般的である)のタイトルバックに関する特集も読み応えがあった。小西康陽、田中知之、小柳帝、安田謙一などが寄稿。

●音楽番組「FACTORY」が始まる。(4月)

フジテレビ系列で深夜に放映された音楽番組。司会は小西康陽。なお、前番組は小室哲哉が司会を務めていた「TK MUSIC CLAMP」である。渋谷系的なミュージシャンも多数登場した。
第1回のメインはギターウルフだったが、番組の最初に歌ったのはショコラだった。
なお、当時は番組冒頭に「THIS PROGRAM SHOULD BE PLAYED LOUD!」とテロップが出ていた。

●『Hospital Plastic Surgery Vol. 1』がリリース(4/28)

ロンドン・エレクトリシティなどが所属するホスピタル・レーベルのリミックス集。
当時、彼らのドラムンベースは歌ものドラムンベースとして、それなりに注目を浴びていた。

このアルバムには小西康陽や、FPM田中、エスタレーター・レーベルの面々などが参加。『PUNCH THE MONKEY』に繋がっていくのである。

●砂原良徳『TAKE OFF AND LANDING』をリリース(5/21)

架空の空港、架空のエアラインを題材とした砂原良徳のアルバム。テクノ、ハウス、ラウンジというジャンルだけでなく、さらにはハワイから宇宙までという空間をも自由に行き来するミクスチャー感覚は衝撃的であった。砂原は同年にフュージョン色も強い『THE SOUND OF 70’s 』もリリースした。

なお、情報過多な音楽で強いインパクトを与えた砂原ではあるが、2001年に彼がリリースした『LOVEBEAT』は逆に音の引き算によるマジックによりインパクトを与え、こちらも強い衝撃を与えた。

●「STUDIO VOICE」と「BRUTUS」で空港特集(4~5月)

砂原の『TAKE OFF AND LANDING』に合わせたのか、「STUDIO VOICE」は「Airport For Airport」と題して世界の空港を特集。「BURUTUS」も「エアラインの正しい選び方。」という特集を組んでいる。

●『カドリーユ』が公開される(6月)

ヴァレリー・ルメルシエが監督・主演した映画『カドリーユ』がシネセゾン渋谷で公開された。音楽はベルトラン・ブルガラ。なお、同映画の日本公開時に「協力」としてクレジットされたのは、ラパレイユ・フォトだ。

●コーネリアス、ワールド・ツアーへ(6月)

前年にリリースした『ファンタズマ』がマタドール・レコードからリリースされ、同年6月から3度にわたって欧米へツアーへ。

○『PUNCH THE MONKEY!Lupin the 3rd』発売(6/20)

間違いなく、この年の渋谷系を象徴し、拡散する渋谷系を象徴するアルバムであろう。DJたちが主役となったことを強烈に印象づけた1枚であった。

余談ではあるが、同年放映されたアニメ「カウボーイビバップ」は、「ルパン3世」の系譜にあるスタイリッシュな作品だが、同作は「TV Bros.」で取り上げられたことで渋谷系リスナーにも注目を浴びた。同作のリミックス盤には4 Heroなどが参加している。

●『Sushi 4004』リリース(8/25)

バンガロウが『Sushi 3003』の続編となる、日本のポップスを集めたコンピレーション盤をリリース。常磐響と砂原良徳によるMidnight Bowlersやハイポジ、コレット、Qypthoneなどが収録される中、ユカリ・フレッシュの「ユカリンディスコ」も収録。96-97年の渋谷系の空気感というものは十分に伝わってくるだろう。

●「relax」でgroovisions特集(9月)

表紙はChappie。なお、Chappieは翌年歌手デビューを果たす。 アルバム『NEW CHAPPIE』には小西康陽や草野正宗、福富幸宏、ROUND TABLEが曲提供を行っている。

●ピチカート・ファイヴ『プレイボーイ・プレイガール』をリリース(10/1)

『カップルズ』に回帰したかのようなソフト・ロック路線。成熟した『カップルズ』。
自曲の引用まで見せ、ピチカート・ファイヴは最早アガリといってもいい状態に。大人になったプレイボーイ・プレイガールの歌を書いた小西は、2年後に“やんちゃボーイ・やんちゃガール”の歌を書くのであった。

なお、98年3月にはピチカートとコラボしたGショックも発売されている。バックライト点灯時にはレディメイド・レーベルのロゴが浮かび上がるというもの。Baby Gも発売された。なお、このBaby Gにはアラーム音として「東京は夜の七時」は内蔵されている。

さらに余談だが。同年9/25に和田アキ子のリリースしたアルバム『DYNAMITE-A-GO-GO!!!』に小西は「真夏の夜の23時」を提供。また和田はピチカートの「悲しい歌」をカヴァーしている。そして、当時の「アッコにおまかせ!」において、和田アキ子は「小西康陽先生に曲を書いていただいた」というコメントをしたのであった。

なお、小西絡みでいえば、この年7月にリリースされた宮村優子『産休』も見逃せないところ。同アルバムについては、こちらをご覧ください。

●ファットボーイ・スリム『You’ve Come a Long Way, Baby』をリリース(10/12)

コーナーショップの「ブリムフル・オブ・アーシャ」、ビースティ・ボーイズ「ボディ・ムーヴィン」のリミックスなど。それらがHCFDM周辺でヒットしていたこともあり、ファットボーイ・スリムの同盤はリリース前から注目されていた。

この年の渋谷系のトレンドは間違いなく、このアルバムであり、ノーマン・クックの創りだす音であった。

●フランス・ギャルの作品がいっせいにリイシュー(11月)

前年にフランス・ギャルの初期に絞った作品集『メイユール・コレクション』がマーキュリーからリリースされたが、翌年の98年にはデビュー35周年ということでワーナーが、70年以降のフランス・ギャルのオリジナル・アルバムを復刻した。
それまでは渋谷系的にはあまり語られてこなかった70年代以降のフランス・ギャルにスポットがあたったのは、渋谷系が成熟し拡散していった98年を象徴するかのような……というのは大げさすぎか。

さいごに

渋谷系は殺されたのではない。渋谷系は変異し拡散していったのだ。
それが私の言いたかったことである
この続き? いつか書くに決まってるだろ。「当たり前じゃ、ボケ」[1]1993年6月に小沢健二が日比谷野外音楽堂で行ったフリー・ライヴはこの言葉で〆られる

それでは、最後の曲です。モーマスで「Anthem Of Shibuya」。

3年後に、僕は今こうして追記を書いている。

今は平成31年4月14日である。
僕は3年前、こんなことを書いた。

この続き? いつか書くに決まってるだろ。「当たり前じゃ、ボケ」

結局、渋谷系年表的なものを僕は書かないままでいる。だけど、僕は渋谷系年表への私なりの補足1998年編と1999年編で書いたことを、そこで訴えようとしたことを小説にすることにした。あの時に切った啖呵は、(勢いだけのものではあったけど)一応約束は果たしましたぜ、と、そこを書いておきたくて、3年たった今、こうして加筆しているのであった。みっともないことにね。

註釈

註釈
1 1993年6月に小沢健二が日比谷野外音楽堂で行ったフリー・ライヴはこの言葉で〆られる